「最初の殉教者」 05.10.02
使徒言行録7:54〜8:3
<目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます。天にいます方よ。
御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ、はしためが女主人の
手に目を注ぐように、わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を
注ぎ、憐れみを待ちます。>(詩編123編)
ステファノは、人々の悪意ある策略、偽証人、怒り、ねたみを受け、
ついには石打の刑となり、命を奪われました。最初の殉教者です。
彼は石を投げられている時も、天を見つめ、イエスさまに目を注いで
いました。彼は「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」、「主よ、
この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫び、死にました。
絶望、恨み、嘆きが彼を捉えていたのではありませんでした。
殺人の場面にふさわしくない、不思議な平安が彼を包んでいました。
ステファノの殉教後、多くのクリスチャンが命を奪われる迫害の
時代になります。多くの信仰者たちも、ステファノと同じく、自分たちを
最後まで支え、平安の中におき続けてくださる主イエスに目を注いで
いたに違いありません。聖書は、殉教者を英雄視するのでなく、
最後の最後まで支える主イエスを示します。
<ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に
立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に
立っておられるのが見える」と言った。>立っておられるのは、
主イエスが自分に手を差し伸べようとしておられるからです。
じっと座っていられず、立ち上がるほどに、自分に対して心を注いで
くださる主イエスが見えていました。
主イエスは、わたしたちが永遠の命を得て、命の冠を得られる
ように心から願っておられます。
身を起こし、立ち上がってでも、わたしたちの信仰の歩みを支え、
助けようとしてくださいます。
御言葉を重んじることで、その様な主イエスのお姿が見えてきます。
主の愛の深さ、広さ、大きさが明らかにされます。
そのような、主イエスに目を注ぎ、支えられ、励まされ、安心して、
命の冠を得る歩みを進めていけるのです。